2012年4月30日月曜日

トルン(ベトナム竹琴)奏者 小栗久美子インタビュー


1.音楽と一緒に成長した子ども・青春時代 

 ―トルンと並行してマリンバ(木琴の一種)の演奏活動もなさっていますが、小栗さんの楽器のキャリアについて教えてください。

 一番最初に触れた楽器は、三歳くらいの時に母に教えてもらったピアノです。母は国立(くにたち)音楽大学出身の声楽家で、自宅でピアノと歌の教室を開いていました。小学校に入ったら器楽クラブに入ってアコーディオンなどを弾いて、小学校の終りにマリンバをやっていた友達にピアノ伴奏を頼まれてマリンバの発表会に出演したことがきっかけとなり、十三歳からマリンバも習い始めました。実は母が私の知らないところで既に先生と話をつけていたらしいのですが(笑)、先生に誘っ� ��頂いて習ってみようと思いました。中学校ではブラスバンドで三年間トロンボーンを吹いて、東京外国語大学に入学してからは、いろいろなバンドで遊び感覚でドラムを叩いていました。
 それまではクラシック音楽をベースにした練習をしてきたので、自由なスタイルで演奏する、というのは全くやったことがありませんでした。その時に楽譜は読めないと言いながら、ギターなどの楽器を自由に操るような人達に出会い、自分が経験してきた音楽と全く違う世界にカルチャーショックを受けました。そういった中で、ソウル、ブルース、ポピュラーミュージックなど様々なジャンルの音楽に触れて刺激を受けました。

 ―普段はどんな音楽を聴いていますか?

 いろいろなジャンルの音楽を聴きますが、普段の生活ではあまり音楽を聴かない方です。移動中や散歩しているときなども、周りから聞こえてくる音を聴いているほうが好きだったりします。

2.自分の好きなことをしていれば、道 は見えてくる

 ―東京外国語大学に進学されて、ベトナム語を専攻された理由はなんでしょう。

 中学生の頃、マリンバの活動で中国を訪れました。とても仲の良い友達もでき、最初は全く言葉が通じなかったけれどマリンバを介して心が通い合っている感覚がありました。その友達に会うために毎年のように訪中コンサートに参加し、文通もして、英語も学校で一生懸命に勉強しました。
 そうして語学や外国の文化への関心が高まり、高校生の頃の私は自然と東京外国語大学が第一志望校になりました。どの言語(学科)を受験しようかと考えたときに、自分はアジア人だからアジアがいいなとは思っていたのですが、交流をしていた中国については既に勉強している人が多く、街中のカルチャースクール でも習える言語ということもあり、大学で専攻しようという気持ちになりませんでした。そうした中、東南アジアは、日本と同じアジアだけれどよく知らないなぁ、と興味を抱くようになり、意識するようになりました。
 その頃、仕事でよくベトナムを訪れていた知人から「ベトナムはいいよ」とアドバイスを頂いたり、テレビや雑誌でも「ベトナムは将来性のある国だ」とよく取り上げられていたことから、「ベトナムは今後さらに注目度が高まる国かもしれない」と思ったんです。
 音楽がもともと好きなので、図書館に行って東南アジアの音楽に関する本も探してみたりしていたのですが、当時ベトナムの音楽に関する本がなかったことも興味を抱くきっかけになりました。まだ紹介されていないだけで絶対にその土地の楽 器はあるだろうし、もしかして面白いものが見つかるかもしれないな、と思って。それと私は一九九八年に入学したのですが、前年にアジア通貨危機でタイバーツが大暴落してタイの国内情勢は不安定、またインドネシアも紛争が勃発し治安が悪化している時期でした。だからもし留学をしたいと言い出したりした場合、安心して行かせられる国、という両親の意向もありました。そのようにしてなんとなくいろいろな情報が集まって、ベトナム語学科を受験しようと決めました。
 トルンを勉強したくて東京外国語大学のベトナム語科に入ったと思われがちですが、トルンに出会ったのは入学した後です。大学に入学する時点ではベトナムに関する知識は全くありませんでした。どんな文字を書くのかも知らなかったぐらいです。
 将来ベトナム語を使ってどんな仕事をしようということについても、はっきりとは考えていませんでした。


@活気あるハノイの街角の風景(2010年撮影)

 ―音楽家を目指していたのであれば、音大への進学は考えなかったのですか?

 母は声楽家でしたけれど、音大に通って音楽家になる道を勧められたことは一度もありませんでした。音大を卒業した母は自分の経験から、毎日音楽ばかりやっているとせっかく好きだった音楽を嫌いになってしまいそうになることもあるし、視野も狭くなりがちだとよく話していました。「よっぽど才能があるか行きたいと思うのであればそういう道も良いけれど、大学は今あなたが一番興味のあることを勉強しなさい。もし将来的にやっぱり 音大に行きたいと思ったら、その時点で勉強して通学したり留学したり出来ると思うよ」と言っていました。私の性格についても「あなたはあれもこれも面白そうって何でも広く浅く知りたがるタイプだから、音楽家養成コースに向いていない」って言われて(笑)。
 確かに音楽も好きだし、絵を描いたり見たりするのも好きだし、文章を書くのも好きでした。かといって芸術家になろうとも思っていませんでした。将来自分が仕事をする時に何が向いているのか自分でも全く分からなかったです。ただ今一番楽しいことや、やりたいことをやっていれば何か見えてくるんじゃないかって思っていました。

3.トルンとの出会いと、人との縁が運んできてくれたチャンス
 
 ―ベトナム語を勉強� �ているうちにトルンに出会ったわけですね。


ここで、フルートは、最初に作られた

 大学に入学してすぐに先生の研究室に置いてあったお土産用の楽器を見て「これ何だろう」って思ったら、それがトルンのミニチュアだったんですね。その時は先生に聞いても「さぁ、ベトナムの楽器なんじゃないの?」くらいの答えしかなくて、ベトナムに行く機会があったらこのミニチュアの本物を見たいなぁって思いました。
 その年の夏休みに友達九人とベトナムの縦断旅行をした時に、ホーチミンの楽器屋さんで初めてトルンに触りました。ベトナムの建物は床がタイル張りで壁もコンクリートなので音がよく響くんですよ。実はその時に弾いたトルンもまだ小さいほうだったことを後で知りましたが、その時はそれが実物サイズだと思って� ��たので、叩いたらとても良い音がして習ってみたいなぁ、って思ったんですよ。マリンバに似ているし、そんなに難しそうにみえなかったので(笑)、ちょっと勉強したらベトナムの曲を弾けるようになるかな、って。
 そうして、先ほどお話ししたベトナムをよく訪れていた知人にご協力を頂いて、大学二年生を終えた春休みに、三週間ハノイにトルンを習いに行きました。
 ハノイでお世話になった先生のお部屋には他にもいろいろな楽器があったのですけれど、その時に初めて今演奏している大きさのトルンを見て、その大きさに驚きました。音階も奏法もとても複雑そうで、かなり心をくすぐられました。すると、先生が「日本の曲を弾いてあげるね」と言って「荒城の月」を弾いてくれたんです。見た目からは想像できな� �響きに圧倒され、鳥肌が立ちました。音を聴いて鳥肌が立ったのは生まれて初めてだったように思います。この音を日本の家族や友人にも聞かせてあげたい、と思いました。基本的な打ち方や簡単なベトナムの曲をいくつか教わり、楽器を買って帰国しました。
 珍しい楽器なので、帰ってきて間もない時に声をかけられてイベントに出演したら、それを見た人が別のイベントに呼んでくださったりして、大した技術もないのに人前で演奏する機会が少しずつ増えていきました。そのため、もっときちんと技術を身に付け、本場のトルン奏者が演奏する代表作も演奏できるようになりたいと思うようになりました。
 やるからにはトルンの歴史なども勉強しようと思い、大学院への進学を決めました。ベトナム人の奏者でもトルン� �歴史についてはよく知らなかったりするので、本場の奏者よりも詳しくなってやろう、という意気込みがありました。
 そうして二〇〇四年から一年間ベトナムに留学し、ハノイとホーチミン市でトルンの勉強をしました。


Aハノイ留学中の先生との練習風景
二〇〇四年の留学期間に師事したライ先生とは、今も師弟関係が続いている

4.時代の変化とともに変容してきたトルン

 ―トルンという楽器の歴史や特徴について説明していただけますか。

 様々な説がありますが、農作物を狙う動物を追い払うために割った竹を打ち鳴らしていたのがトルンの起源だと言われています。ベトナム中部高原のタイグエン地方に住む少数民族の伝統的な楽器です。世界の 音楽史的に見ても、かなり古くから音階の概念があったとされている地です。この地域からは石琴が出土していて、考古学者の見解だと三〇〇〇以上遡れるそうですが、その音階がトルンの原型と同じレミソラシの五音音階です。マリンバの起源はアフリカだと言われているのですが、更に遡ればこのベトナム中部じゃないか、と主張している研究者もいるくらいです。トルンは竹で朽ちてしまいますから考古学的証拠は残っていませんけれど、石の楽器があった頃には竹の楽器もあったでしょうから、きっと本当はものすごく古い歴史があるんでしょうね。
 ベトナムの人口の約九割を漢民族系のキン族が占めているのでベトナムの伝統楽器として紹介されているものは中国に起源を持つものが多いのですが、並べて紹介される機会� �多いトルンとクロンプットはタイグエンの少数民族の楽器です。ベトナムには他にもたくさんの少数民族の楽器があるのに、その中で何故タイグエン(ベトナムの中部高原地帯)のトルンやクロンプットだけがキン族の楽器とともに紹介され、ベトナム全土に知れ渡るようになったのだろうと、とても興味が湧きました。
 トルンも昔は都市部の人には知られていませんでしたが、一九五四年にベトナムが南北に分断された時に少数民族の奏者達がハノイに渡ったのがきっかけで知られるようになりました。そして都市部の音楽家が、形、バチや音階に改良を加え、いろいろな演奏ができるようになりました。元の音階に西洋音階も取り入れて現代音楽の演奏にも適用できるようにしたり、バチも少数民族の特徴的な奏法をバチの改良� ��取り入れました。バチの先に輪ゴムを巻くことで、柔らかい音色を出すなどの工夫もなされました。
 また元々トルンには支柱はなく、木に吊るしたり人が持って弾いたりしていたのですが、少数民族のある奏者がどこでも弾けるよう鉄で支柱を作りました。それを都市部の音楽家が竹や籐で作れるよう工夫し、自然から生まれた楽器の風合いを損なわないようにしました。都市部でなされたトルンの改良は、伝統的な響きや風合い、特徴をしっかり捉え、原型を尊重しながらも、現代に受け入れられるように注意が払われていて、知れば知るほど興味深いものでした。


B留学期間に師事し、 トルン改良第一人者であるドーロック先生と


Dir en greyのは何を意味する

 その改良が都市部で注目を浴びて、トルンを学びたいという人が増え、根付いていったようです。現在では全国的に知られ、ベトナムの代表的な楽器のひとつとして海外でも紹介されるまでになりました。
 大概の音楽の文化と同じで、ベトナムの生活の中に組み込まれて使われていた伝統楽器も西洋化する生活の変化に伴い一時は衰退しつつあったようですけれど、都市部の音楽家が興味を持って今度は芸術として舞台に上せるための楽器にすることで保たれていきました。これだけ改良されると原型から大分変ってしまっていますが、今度は反対に逆輸入みたいな形で少数民族が改良型トルンを取り入れています。伝統を残すことはもちろん大切だけれど、変化する社会に取り残されたら消え� �ってしまいますから、そこは現代に生活する人々にも受け入れられるための工夫が必要だと思います。
 トルンは竹製で、高温多湿のほうが相性が良く、寒さと乾燥が苦手です。ですから日本の冬は難しく、竹にひびが入ると完全にダメになってしまいます。また、マリンバのように立派な共鳴管が付いているわけではないので、季節や会場の環境によっては全く響かないなど、音質の差が激しい楽器です。私の演奏で初めてトルンを耳にされる方も多いので、第一印象となる場はなるべく良い環境で良い音色を聴いて頂きたいと思う反面、どんな場であってもとにかくいろいろな場所で演奏して一人でも多くの方にトルンについて知って頂きたいという気持ちもあり、なかなか難しい面があります。

5.プロへのターニン� �ポイント

 ―大学時代は音楽家を志していなかったそうですが、プロの演奏家になる決心をなさったのはいつ頃ですか。

 当初は二〇〇三年の四月から留学をする予定で、その準備のために教授に付いてベトナムに十日間行きました。帰国して成田から家に電話したら連絡がつかなくて、やっと父親と電話が繋がったと思ったら「すぐに病院に来い」と言われました。病院に行ったら母が多発性骨髄腫という病気にかかって余命半年だと宣告され、その場で留学は諦めてくれと言われました。最初はうまく状況が飲み込めませんでした。
 大学を休学して母の看病にあたりましたが、母も一年間、苦しい闘病生活を耐え抜き、驚くような回復をしたんです。歩けなくなるとも言われていたのですが、その時はそ� �いうこともありませんでした。そして二〇〇四年から留学へ行くことを許可してもらったのですが、母が命を懸けて行かせてくれた留学だったのでとても大切に過ごした一年間でした。本当に奇跡的な回復で、母は二回もベトナムに遊びに来てくれました。


Cトルンの先生の家で、遊びに来た母と一緒に撮影 
向かって右から小栗さんのお母様、小栗さん、ライ先生、演奏家で楽器製作者でもあるライ先生のご主人

 母のことやベトナムで出会った方々に本当に親切にして頂いたことなど、自分のなかに色々な想いが生まれ、中途半端にはできないな、と強く思いました。それだけのことをやらせてもらったので、ただ遊び感覚で好きだからやっている、ではなくて本気でやらないとお世話になった皆さんに も失礼だし、周囲や母に対する感謝の気持ちから、自分自身に対しても納得がいかないという思いがありました。でもプロでやればそれが「本気」にやることになるのかっていうと、それは分かりませんでした。プロになればそれが仕事になるのかは分からないし、別に仕事を持ってトルンを趣味でやっていても、自分にとって「本気」ならそれはそれでいいわけですから。
 そんな風に自分の道を模索している時、二〇〇七年十月に初めてトルンとマリンバのリサイタルを開かせて頂く運びとなりました。二〇〇六年の一月末に母が病気の再発で再入院し、以前より進行してしまっていて、退院して自宅療養に入った後も一人で生活できない体になってしまったことが私の背中を押しました。娘は私一人なのですが、花嫁姿もまだま� �見せてあげられそうにないし、母が生きているうちに、他に何か母に見せてあげられるものはないかと考え、以前から母の夢だった「横浜みなとみらいホールで私がリサイタルを開くこと」を叶えようと決意しました。大学を卒業する頃からマリンバの先生にはずっとリサイタルを開くように言われていたのですけれど、自信がなくて逃げ回っていたんです。今やるしかないと思いました。


どのようにエミネムは音楽に巻き込まれるのですか?


D二〇〇七年のデビューリサイタルでのトルン演奏風景(撮影:重本昌信)

 だけど結局、本番の一ヶ月前に母は亡くなってしまいました。でもそんなこともあったからか、本番当日は母が声をかけてくれていた母の友達が皆応援にかけつけて下さり、会場に入りきれないほど満席になりました。定員四四〇名のホールが本当に溢れてしまうほどで、初めてのリサイタルでものすごい経験をさせていただきました。
 それまではいろいろなコンサートに出ていても自分一人のお客様じゃなかったから、自分一人のためにそれだけの人が集まってくれたというのは初めての経験だったんです。私はもともと音楽に関� �ては結構コンプレックスを持っているところがあって、音大も出てないし、マリンバも私よりもっと上手な人が大勢いるし。だから、実は音楽を仕事にしていくということは元々あまり考えていませんでした。
 でもそれだけの人数の方が応援して聞きに来てくださって、ものすごく暖かい空気を感じながらのリサイタルだったんです。
 「お母さんが亡くなったばかりで、くみちゃん大丈夫かな、ちゃんと演奏できるかな」って心配して下さった方が多かったんですけれど、私には母が「これからは私がいなくてもこれだけの人が応援していてくれているから大丈夫よ」って言ってくれているのが聞こえたリサイタルでした。
 母は亡くなるギリギリまで車椅子で音楽活動をしていたのですけれど最期は身体も動かなくなって 、看病はほとんど私がしていました。だから母が亡くなった時、父は私に「お母さんは一ヶ月間という時間を久美子にプレゼントしてくれたんだよ。私のこと気にしないで、リサイタルに集中できるようにって。だから精一杯やりなさい。」って言ってくれました。その言葉も力になって本番は凛として演奏できました。周囲は同情していたのかもしれないですけれど、自分の気持ちは「悲しい」じゃなく「頑張るぞ」っていう方向に切り替わっていました。
 デビューリサイタルはある意味「これから音楽家として活動していきます」っていう宣言でもあるので、これだけのお客様を目の前に、今後きちんと約束を果たしていかなければと思いました。
 このリサイタルの経験は大きかったですね。その時に、この気持ちを絶対に 忘れないで、音楽の活動を期待されたら応えていこうって心に誓いました。誰にも必要とされなくなるまでは、聞きたいって言ってくれる人が一人でもいる限りはやっていかなきゃいけないと思いました。
 そういう意味では、トルンとの出会いはコンプレックスのある私がプロ活動させてもらえるきっかけを作ってくれた感じがしていて(笑)。なんとなく自分のサイズや感覚に合う楽器で、素直に表現できるんです。


E二〇〇七年のデビューリサイタルでのマリンバ演奏風景(撮影:重本昌信)

 母の音楽教室は、私が引き継いでいます。生徒たちに教えることで勉強になることがすごく多いです。個人レッスンなので、時間的な融通が利くのもありがたいです。普通に会社務め� ��ていたらできない活動ですから。母の代からの生徒も続いているし、私が教室を引き継いでから入ってきた生徒もいます。小学生から大人のかたまで、年齢層も幅広く楽しいです。私が一番最初に教えた小学五年生の子が、今は大学二年生になりました。生徒たちが長く続けてくれて、家族のような教室です。トルンはまだ教えていませんが興味のある方からお声がけ頂くようになったので、近い将来「トルンアンサンブル」ができる教室を開きたいなと考えて少しずつ計画を進めています。

 ―小栗さん御自身は、楽器の練習はどのくらいなさるのですか?

 特に決めていません。時間のある時は一日中でも弾いているし、反対にその日のスケジュールによっては全く練習できない時もあります。コンサートが近付けば� �然にそれぞれの楽器の練習量が自然に増えますし、かなりランダムです。やりたい気分とやりたくない気分の時の差も激しいです(笑)。
 

6.ベトナムは第二の故郷

 ―音楽はその国の文化の一部ですが、ベトナムという国についてはどんな印象を持ちましたか?

 自分は前世がベトナム人だったのかな、って思うくらいあの国の空気はしっくりきて好きです。ベトナムに行く前は、留学経験のある先輩方に「全然知らない人が手を差し伸べてきたり、やたらと親切にしてきたりしたら注意。後で見返りを求めてきたりする。」って言われていました。実際に親切にしてくれた人が沢山いて始めは疑ったりもしたんですけれど、結局は本当にいい人達で今でも友達です(笑)。 



F友人の伯父宅で(バンメト―ト、2005年)
トルン発祥の地であるベトナム中部高原にフィールドワークへ行った時、その方面に住むハノイの友人の伯父が全面的に協力してくれた。このようにベトナムでは、たくさんの良い出会いに恵まれた。

 本当に色々な面で協力してくれた友達に、「私は学生でお金も持っていないし、お返しも何もできないのに、何でそんなに親切にしてくれるの?」と聞いたことがあります。すると彼女は「自分の国の文化に興味を持ってくれて、単身留学してきたことに感動したの。」と言ってくれました。実際に街中でも、それまで無愛想だった店員さんに話の流れで「トルンを勉強しに来た」と言ったら、急にフレンドリーになっ� ��くれたりしたこともよくありました。「ベトナムの文化に興味を持ってくれて嬉しいから何か協力をしたい」って言ってくれた人が沢山いました。
 あるベトナム人の友達が「日本人留学生にベトナムに来た理由を訪ねると『ベトナム語を勉強しに来た』といは言うけれど、それ以上の目的が言えない学生がたくさんいる、ただ遊んでいるようにしか見えない」と言っていたことがありました。私はトルンという楽器を学びたいっていう目標が明確にあったことで、より現地の人々に受け入れてもらいやすかったのではないかと思っています。
 私は幸運にもとても良い人々との出会いに恵まれて、そのお陰で今があります。自分にとってベトナムは「第二の故郷」だと思っています。
 また国の印象はよく聞かれますが、私� �人間味溢れる雰囲気が好きだと言います。人々がとても自然体で暮らしている印象を受けます。日本の都会のように、周囲の知らない人を「他人」と思う意識が強い社会と違って、人と人の関係もとても自然な感じがしました。留学中、全く知らない人から「そのバイクいくらで買った?」「その服、素敵ね、 どこで買ったの?」などと急に話しかけられたりすることも良くあり、最初は戸惑いましたが、そういうことがとても自然で、嫌だと思うどころかむしろ気持ちよく感じました。


Gハノイの街角で笠売りの女性と
ベトナム人はとてもフレンドリーで、単身トルンを留学しに来た小栗さんを温かく受け入れてくれた

7.自分らしい演奏を目指して

 ―トルンという外国の伝統楽� �を日本人の小栗さんが演奏する時、どんなことに注意を払っていらっしゃいますか。

 ベトナムで勉強したトルンの代表曲や民謡を演奏する時は、その文化や伝統を尊重して自分のパートは極力アレンジしないようにしています。でもベトナムの奏者のコピーをして同じことをするだけであれば、当然本場の奏者の演奏のほうがずっと素晴らしいし、外国人の私がそれだけを一生懸命やってもあまり意味がないように思います。トルンを通じてベトナムの伝統や文化を紹介したいという気持ちはもちろんあります。でもそのことを目的にトルンをやっているわけではなくて、私は純粋にトルンが楽器としてとても好きなんです。   
 だから自分の表現をトルンで追求するという意識でやっています。その方が私の音楽とし� �聴いてもらえると思っていますし、そうして楽器や演奏に注目をして頂いてから伝統的なスタイルで演奏して紹介したほうが、お客さんにより一層興味を持って聴いて頂けるのではないかとも思っています。
 ベトナムでは、トルンを打楽器的に演奏するほうが一般的ですが、私はトレモロ(単一の高さの音を連続して小刻みに演奏する技法、 ならびに複数の高さの音を交互に小刻みに演奏する技法)の特徴を生かして、トルンの綺麗な音色で歌うような演奏をするのが好きです。先入観や固定概念のない、外国人の私だからできる演奏があってもいいと思うし、それによって楽器の表現や可能性が広がるのではないかと考えています。
トルンは非常に長い歴史を持つ楽器ですが、現在のトルンは大分改良されているので、代表曲とされている楽曲も、実はわりと新しい近現代の作品ばかりです。ですから最近ではトルンを説明する時にあまり「伝統的」という言葉は使わないようにしています。
 現代楽器との相性、という面では電子楽器とはあまり合わないかも知れません。でも私、最初トルンは調律が簡単にはできない上に、環境によって音の変動があるため、ピアノ とは合わないな、と思っていたのですけれど、最近はオリジナル曲などでピアノと一緒にやることも多いです。多少のズレはそれも味があると思えてきました。(笑)これからもいろいろな楽器と合わせてみたいなと思っています。トルンがちゃんと響く環境であれば、意外とどんな楽器にでも合うんじゃないかと思います。
 トルンで日本の曲を演奏することについては、日本の童謡や歌曲を歌っていた母の影響が大きいですが、竹の音色は日本の音楽と合うということがお客様の反応を見ていても分かりますし、やはり喜んで頂けるので大事にしたいです。でもベトナムと日本の文化の融合ということは特に意識していません。あくまで自分らしい音楽を心がけています。


Hアンサンブル「トリオ」の演奏(� ��影:重本昌信)
様々な楽器との共演を通じて、自分らしい演奏を目指している

 ―六月一四日に初めてアルバムを出されて、同日に記念公演も横浜みなとみらいホールで開かれます。オリジナル曲も聞かせていただけるとのことで今から楽しみです。


 ありがとうございます。二〇〇九年からオリジナル曲の創作にもチャンレンジしているのですが、トルンと自分を一体化させて全部で表現できるように、と心掛けています。
 とはいえ、自分では力不足なことが多く、今回のアルバム制作もコンサートも力強い協力者に恵まれたことがとても大きいです。特にオリジナル曲については、森川拓哉さんにピアノで編曲して頂いたことで、自分の表現したい世界をより鮮やかに描きだすことができました。パーカッションの立岩潤三さんにも沢山のアイディアを頂き、豊かな音作りの実現に多大なるご尽力を頂きました。
 曲に対するイメージが自分の中にしっかりあるので、やはりオリジナル曲が一番自分を表現しやすいです。ただ、 ベトナムの音楽家が作ったトルンの代表作は、はやりトルンの特徴をしっかりとらえていて、奏法なども豊富なので、今後、オリジナル曲を作るうえで、そういった「トルンらしい」演奏法を取り入れた作品を作っていけるよう勉強中です。

 ―演奏活動に教室、トルンにマリンバ、日本トルン協会の副理事、ソロ活動の他にもトリオや様々なかたとの共演などご多忙です。インタビューの最後に、思い描いた夢を実現する秘訣を読者に教えてください。

 これは母から教えてもらったことなのですが、とにかく周りに言ってしまうことですね。そして有言実行。半年、一年後にはこんなコンサートを開きたいな、と公言してしまったら、実行できないと格好悪いのでやらざるを得なくなります。(笑)でも実際そのように� ��言していくことで、協力者との出会いに恵まれて、良い方へことが動いていくということはあると思います。何がしたいのか分からない人には、周囲の人も協力のしようがないですしね。フリーで仕事をするということは、怠けようと思えばいくらでも怠けてしまえるので、そうやって有言実行を目標に、いつも自分のお尻を叩くようにしています。

(取材:冨久田純)

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